火星人は午後五時にやって来る
火星人が地球へ来たのは、一九五七年六月十二日の午後五時十七分だった。
少なくとも、ミズーリ州グレンフォールズの人々はそう信じていた。
実際のところ、それが本当に火星人だったのかは最後まで誰にも分からなかったし、そもそも火星という惑星に知的生命体が存在するのかどうかさえ怪しかった。
だが、その男は自分を火星人だと言った。
そして、彼は驚くほど火星人らしくなかった。
身長は五フィート八インチほど。
痩せ型。
くたびれたグレーのスーツを着て、茶色い帽子をかぶっていた。
顔は少し青白いが、酒場で三日ぐらい飲み続けた保険外交員と言われれば納得できる程度だった。
彼は午後五時十七分、町の唯一のバーである「ブルームーン亭」の扉を開け、カウンター席へ座った。
そしてこう言った。
「バーボンを一杯。それから、できれば地球侵略について少し相談したい」
店主のチャーリーは、グラスを磨いていた手を止めた。
店内には五人ほど客がいた。
みんな笑った。
その男も笑った。
「ジョークじゃないんだ」
彼は言った。
「本当に困ってる」
チャーリーは肩をすくめ、バーボンを注いだ。
「侵略するなら軍隊がいるぜ」
「それが問題なんだ」
男はグラスを持ち上げた。
「軍隊がない」
再び笑いが起きた。
男は真面目な顔だった。
「火星には昔、軍隊があった。でも二百年前に全部なくした」
「平和主義者ってわけか?」
「違う。面倒だったんだ」
男はバーボンを一口飲んだ。
「戦争はコストが高い」
誰かが口笛を吹いた。
チャーリーは少し面白くなってきた。
「じゃあ何しに来たんだ、ミスター火星人」
「交渉だ」
男はポケットから紙を取り出した。
折りたたまれた紙には、細かい文字がびっしり書かれている。
「地球を平和的に征服したい」
店内は静かになった。
というより、みんな次の冗談を待っていた。
「どうやって?」
チャーリーが聞く。
「できれば合法的に」
男は答えた。
「合法的?」
「君たちの法律では、企業が企業を買収できるだろう?」
「まあ、そうだな」
「なら国家も買収できるんじゃないかと思って」
沈黙。
それから店中が爆笑した。
だが男は笑わない。
「本気なんだ」
彼は真剣だった。
その時、入り口のベルが鳴った。
新聞記者のサリー・ベネットが入ってきた。
二十八歳。
赤毛。
町で唯一、まともに大学教育を受けた人間だと言われている。
もっとも本人は、その評価を嫌っていた。
「何の騒ぎ?」
サリーは帽子を脱ぎながら聞いた。
「火星人が地球を買いたいそうだ」
誰かが言った。
「安けりゃ私も欲しいわ」
サリーはカウンターへ腰掛けた。
男をちらりと見る。
「あなた、本当に火星人なの?」
「はい」
「証拠は?」
男は少し考えた。
「火星語を話せる」
「話してみて」
男は喉を鳴らした。
変な音だった。
壊れたラジオと蛙を同時に押し潰したような音。
「それだけ?」
「かなり難しい言語なんだ」
サリーは笑った。
「名前は?」
「翻訳すると、だいたいアルフレッドになる」
「火星にもアルフレッドがいるの?」
「便利だから」
男は真面目に言った。
サリーは急に興味を持った。
町には退屈以外ほとんど何もなかったからだ。
「地球を買収したい理由は?」
アルフレッドはため息をついた。
「観光資源」
「は?」
「火星は最近、観光産業が不振なんだ」
彼はバーボンを飲み干した。
「昔は運河が人気だった。でも干上がってから客が減った」
「それで地球を?」
「海がある」
誰かが吹き出した。
アルフレッドは続ける。
「森林もある。酸素も多い。実に魅力的だ」
「侵略じゃなくて旅行会社じゃないか」
「その通り」
男は嬉しそうに頷いた。
「だからできれば穏便に済ませたい」
サリーはノートを取り出した。
「これ、記事にしていい?」
「もちろん」
翌朝、『グレンフォールズ・ガゼット』は過去最高の売上を記録した。
一面見出し。
『火星人、地球買収を提案』
写真付き。
もっとも写真のアルフレッドは、ただの疲れた営業マンにしか見えなかった。
記事は全国へ広まった。
最初はジョークとして。
ラジオ番組が取り上げた。
テレビ司会者が笑い話にした。
だが二日後、事態は少し変わった。
アルフレッドが銀行へ行ったからだ。
彼は町の第一信用銀行へ入り、窓口でこう言った。
「惑星買収用の融資をお願いしたい」
銀行員は当然断った。
するとアルフレッドはポケットから小さな金属片を出した。
親指ほどのサイズだった。
「これで担保になると思う」
銀行員は半笑いで受け取った。
三十分後、銀行は閉鎖された。
政府関係者が押し寄せたのである。
金属片は未知の元素だった。
強度は鋼鉄の百倍以上。
しかも異常に軽い。
ワシントンが動いた。
軍も動いた。
三日後には、グレンフォールズは連邦政府関係者で溢れていた。
アルフレッドは相変わらず「ブルームーン亭」で酒を飲んでいた。
「本当に火星人なんですね」
サリーが言う。
「最初からそう言ってる」
「なぜもっと派手に登場しなかったの?」
「派手なのは嫌われる」
アルフレッドはピーナッツを摘まんだ。
「前に金星人がそれをやって失敗した」
「金星人もいるの?」
「いる」
「地球へ来た?」
「来た。でも誰も気づかなかった」
サリーは頭が痛くなった。
その頃、ワシントンでは緊急会議が開かれていた。
軍部は火星の脅威を警告した。
科学者はアルフレッドの技術力に驚愕した。
政治家たちは責任の押し付け合いを始めた。
ただ一つ明らかなのは、アルフレッドが嘘をついていないらしいという点だった。
そして彼は、本当に地球を買収したがっていた。
数日後、連邦政府はアルフレッドへ正式な質問団を送った。
場所は「ブルームーン亭」。
彼はそこでチェリーパイを食べていた。
「まず確認したい」
国務省の男が言う。
「あなた方は敵対的意思を持っていますか」
「いや」
「侵略は?」
「できれば避けたい」
「だが場合によっては?」
アルフレッドは少し考えた。
「値段次第かな」
会議は混乱した。
アルフレッドは終始穏やかだった。
彼によれば、火星文明は極度に商業化されているらしい。
戦争より交渉。
武力より契約。
惑星同士の取引も珍しくないという。
「じゃあ、もし地球を売らなかったら?」
軍人が聞いた。
「別に」
アルフレッドは肩をすくめた。
「諦めるだけだ」
「侵略しないのか?」
「面倒だから」
「だが技術的には可能なんだろう?」
「たぶん」
軍人たちの顔色が変わった。
アルフレッドは慌てて付け加えた。
「でも利益が出ない」
その夜、サリーは彼と二人で話した。
町外れの丘だった。
夏の夜風が吹いている。
「ねえ、本当は何が目的なの?」
アルフレッドは空を見上げた。
「君たちを見に来た」
「人類を?」
「うん」
彼は少し笑った。
「火星では、みんな合理的すぎるんだ」
サリーは黙っていた。
「君たちは変だ」
「ありがとう」
「非合理だし、危険だし、感情的だ」
アルフレッドは続ける。
「でも退屈しない」
遠くで列車の音がした。
「火星では百年前に芸術がなくなった」
「なくなった?」
「必要性が証明できなかった」
サリーは彼を見た。
アルフレッドは本当に寂しそうだった。
「だから地球を欲しがってる?」
「たぶんね」
数週間後、世界中が奇妙な熱狂に包まれた。
火星ブームだった。
企業は「火星式ダイエット」を売り出した。
映画会社は宇宙侵略映画を量産した。
子供たちはアルフレッドの真似をした。
だが当のアルフレッドは、相変わらず町のバーで飲んでいた。
そして八月の終わり、彼は突然こう言った。
「帰るよ」
サリーは驚いた。
「地球は?」
「買えなかった」
「諦めるの?」
「予算不足だ」
彼は笑った。
「でも来てよかった」
出発の日、町中の人間が丘へ集まった。
アルフレッドの宇宙船は、驚くほど小さかった。
銀色の楕円形で、トラック一台分ぐらいしかない。
「それ、本当に宇宙船?」
チャーリーが聞いた。
「一人乗りだから」
アルフレッドは荷物を積み込んだ。
「また来る?」
サリーが尋ねる。
「たぶん」
彼は少し考えた。
「次は観光客として」
「侵略じゃなく?」
「その方が安い」
宇宙船の扉が閉まる。
低い振動音。
そして船は静かに空へ浮かび上がった。
誰も喋らなかった。
宇宙船は星みたいに小さくなり、やがて消えた。
町には静寂だけが残った。
その後、世界は少し変わった。
人々は宇宙を以前より身近に感じるようになった。
そして奇妙なことに、芸術が流行した。
絵画。
小説。
音楽。
理由を説明できないものが、以前より大切にされた。
サリーは後に回想録を書いた。
タイトルは『火星人は午後五時にやって来る』。
本はベストセラーになった。
だが最後のページだけは、多くの読者が冗談だと思った。
そこにはこう書かれていたからだ。
『二十年後、私は再び彼に会った。しかもオハイオ州の遊園地で』
そしてその下には、小さな追記があった。
『彼は地球を買わなかった。でも火星人の観光客は増え続けているらしい』
『たぶん、あなたの隣人もそうかもしれない』